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中部エナジー探検隊

《日 時》
2020年11月7日(木)13:30〜16:00
《会 場》
五十鈴塾右王舎(伊勢市宇治浦田1-5-3)
《テーマ》
人の力が導く未来

「中部エナジー探検隊」では、これまでエネルギーをテーマに講演や視察といった活動を続けてきました。昨年は、明治維新から日本の経済発展に貢献した石炭、製鉄、造船、鉄道などの建築施設をバーチャルで旅するというエネルギーツーリズムで学びましたが、今回は、全く新しい視点でエネルギーをとらえる試みとして、岩本敏氏(フリーランスエディター・エッセイスト・サライ元編集長)に「人のエネルギー」についてお話を伺いました。


講演 
 人の力が導く未来

小見出し1)シニア世代にとって人生をさらに豊かにするエネルギーとは

中部エナジー探検隊の大竹さんから今回協賛のETTの活動、また中部エナジー探検隊の活動についてご紹介いただきましたが、今回はいつも学習なさっているエネルギーのテーマとはちょっと違う視点から、人間のエネルギーとは何かについて、ヒントになるようなお話をしたいと思います。私は岡山で生まれ名古屋で学生時代を過ごし、東京の出版社勤務を経て、66歳で亀山市に移住しました。出版社では主に雑誌を編集しましたが、中でも印象に残っている雑誌がアウトドアライフを提案する『BE-PAL』(1981年創刊)とシニア誌『サライ』(1989年創刊)です。岡山の田舎で生まれた私にとって田舎暮らしや自然の中で遊ぶというのは日常生活でしたが、『BE-PAL』を担当するうちに都会には田舎に憧れている人が、予想以上に多いということを知りました。コロナ禍の今でははっきりしてきましたが、田舎は都会より遅れているというのは全く逆で、田舎の方が人間の未来にとっては一歩先を歩んでいるという側面があると思います。また『サライ』は、中高年に向けて、年を重ねることはマイナスではないと発信した日本で初の雑誌で、「リタイア後も遊び心を持って暮らそう」と提案し続けてきました。

二つの雑誌の編集に携わったことで自分の人生観にも大きな影響を受け、「手間暇を省くのが文明で、手間暇を楽しむのが文化だ」と思うようになりました。特に、不便を楽しめる成熟社会を目指そうというのが『サライ』の主張でしたが、当時はバブル期で、ノスタルジーをマイナス要素にとらえる風潮があり、過去を振り返っても意味がないとばかり、新しいこと若いこと便利なことに重きを置いた雑誌や放送番組ばかりが目立ちました。ある公開対談で、「『サライ』では古いこと、長く続いたモノしか取り上げません」と発言したところ、聴衆の中から「年寄りにだって未来はあるのだから、古いことにのみこだわるのはおかしい」と言う意見が出ました。言葉に詰まった私の代わりに、対談相手だった評論家の川本三郎さんが、「振り返りたくなる過去を持てる幸せは、人間の幸せの中のかなりの部分を占めると僕は思う」とおっしゃってくださり、以来、この言葉が私の座右の銘になっています。



小見出し2 隠居してから歩いて測量し作り上げた伊能忠敬の日本地図

私には、その偉業と生き方に惹かれて調べている人物が二人います。一人は日本で初めて実測による日本地図を作った伊能忠敬(1745〜1818)。もう一人は、蝦夷地を調査する中でアイヌの人々と出会い、その文化を書物に残し、北海道の名付け親と言われる松浦武四郎(1818〜1888)です。伊能忠敬は千葉、九十九里浜で生まれ、私も現役時代に千葉県在住でしたので縁を感じており、また松浦武四郎は、私の移住先三重県亀山の近く、松阪出身と知り、興味が湧きました。そして伊能が亡くなった年に松浦が生まれているので、松浦は伊能の生まれ変わりではないかと、ひそかに思っているのです。

まず伊能忠敬についてですが、私は伊能忠敬研究会の会員として、2018年には没後200年を記念するイベントのお手伝いもいたしました。忠敬は17歳で千葉、佐原の豪商、伊能家の婿養子になり、商才を発揮するとともに、飢饉の時には米を供出して人々を救った人物でした。そして49歳で隠居した時には今のお金にして50億円くらいの財産を築き上げており、50歳で江戸に出て、子どもの頃から興味のあった天文暦学の学問に没頭します。もともと伊能家は膨大な書物を所蔵しており、それを片っ端から読んだほど学問好きだった忠敬は、19歳年下の幕府役人、天文学者の高橋至時(よしとき)に入門し、幕府天文台に匹敵するような観測機器を自宅にも構え、勉強に励みます。深川の自宅と浅草の暦局を歩いて測量し、自宅と暦局天文台での天体観測と合わせて緯度1分の距離を求めて高橋に提出したところ、高橋から「蝦夷地くらいまで測量と天体観測ができればより正確な数値になり、地球の大きさもわかるだろう」と言われます。そこで費用は自分で負担するからと、当時、ロシアからの威力に脅かされていた蝦夷地を調査するという名目で、幕府から測量のための旅の許可を得ました。

第1次測量出発は、1800年、伊能忠敬55歳の時でした。この測量図が高く評価されたため、翌年には本州の東海岸の地図作りに出かけ、第3次は日本海沿岸、さらに東海道と北陸道を測量します。その結果、1803年に東日本の沿海地図が完成します。一枚が畳一畳分、それが69枚というこの地図は第11代将軍徳川家斉にも認められ、忠敬は幕府の測量隊として役人や弟子を連れて西国の海岸や街道の測量に向かいます。当初3年の予定でしたが、結果的に11年を要し、間宮林蔵が担当した蝦夷地測量データを受け取ったのち、忠敬は1818年、73歳で亡くなります。しかしその死は隠されたまま門人らにより作業が続けられ、3年後の1821年に「大日本沿海輿地全図(だいにほん えんかい よちぜんず)」が完成しました。

伊能忠敬の測量旅行の回数は10回、忠敬自身の総歩行距離は約3.5万kmと言われており、そのほとんどを自分の足で歩いて測量した日本地図(大図214枚、中図8枚、小図3枚)は、つなぎ合わせて広げると体育館の床一面になるほどの大きさになり、しかも現在の衛星写真をもとにした地図とほとんど誤差がなく正確でかつ美しいものとなりました。  



小見出し3 16歳から死ぬまで旅を続けた松浦武四郎 

もう一人注目している松浦武四郎は、1818年、松阪生まれ。松浦家は武家ではありませんが、代々、村のまとめ役であり和歌山藩の出張所としての役割を担う名家でした。家は伊勢参宮の街道に面しており、13歳の時には、日本の人口3,200万人のうち年間400万人もが伊勢神宮詣でをした「文政のおかげ参り」の様子を見ています。日本全国から訪れる旅人から各地の話を聞き旅心を募らせていたであろう武四郎は、儒学を学ぶ一方、骨董品にも興味を持つ子供でした。1833年、16歳の時、突然家を出て江戸に向かいます。この時残した手紙には「江戸、京都、大阪、長崎、唐(中国)、あるいは天竺(インド)まで行くかもしれない」と書いています。江戸では篆刻家(てんこくか)の弟子になり、翌年の旅からは、篆刻の技術で路銀を稼いだそうです。伊勢からきた少年が彫る印だからとありがたがられたのでしょう。17歳で日本諸国を巡る旅に出て、20歳で九州に渡り、長崎で病にかかった彼は出家して平戸の寺の住職になっています。

長崎では僧侶や学者たちから、北の蝦夷地がロシアにより緊張状態に陥っていると聞いて、蝦夷地へ行く決意を固めます。急遽、足掛け9年留守にした生家に戻り、すでに他界してた両親の供養をすませた翌年、28歳で最初の蝦夷地調査を行い、以後41歳まで6回蝦夷地に渡っています。はじめのうちは私的行動だったので、松前藩の役人や商人たちに頼んで船に乗せてもらったりしていましたが、1850年、32歳の時に大量の調査記録の資料を執筆・出版して認められ、4回目の調査からは幕府の蝦夷地御用御雇人として調査するようになります。彼の書いた書物には、蝦夷地の地形や地名、動植物のみならず、調査に協力してくれたアイヌの人たちから聞いた文化や、松前藩や商人による搾取なども記録されており、江戸でも大評判になりました。また松浦の描いた地図は、海岸線は伊能地図を下敷きにして、内陸部の河川を細かく描写しています。

激動の幕末、吉田松陰や水戸藩士たちとも交流があった松浦武四郎でしたが、1868年、51歳の時に迎えた明治維新では、大久保利通らの推挙により蝦夷地の開拓判官に任命されます。翌年、蝦夷地に代わる新しい名称の案として政府に提出した一つが、「北加伊道」でした。加伊とはアイヌ民族を指す「カイ」を表し、これが政府によって北海道と字が改められて今に至るわけです。

しかし53歳の時には開拓判官を辞し、以後は子供の頃からの趣味の古物収集や執筆活動に専念しますが、知識人と幅広い交友関係を結び、毎年のように旅に出かけ、70歳で富士山登山をするほど健脚でした。とはいえ、健脚だった伊能忠敬と同様、持病があり、丈夫とは言えませんでした。ただ好奇心が強く、とにかくよく歩き、記録することに執念を燃やして長寿を全うしたと思います。二人の違いといえば、伊能忠敬は幕府をうまく利用しながら自分のなすべきことをやり遂げた人物。一方、松浦武四郎は、アイヌ民族との交流によって次第に正義に目覚め、時の権力者に抵抗し、最終的には趣味人に落ち着いたことでしょうか。二人とも偉人ですが、それぞれの人生から私なりに学んだのは、「人のエネルギーの源泉は好奇心」ということです。可能な限り歩いて見て聞いて、それを記録することで記憶を支えながら、無理をしないで楽しむことが、豊かな人生を送る秘訣ではないかと思っています。



岩本 敏(いわもと さとし)氏プロフィール

フリーランスエディター・エッセイスト・サライ元編集長
1947年、岡山県生まれ。南山大学卒業後、小学館勤務。『ビッグコミック』『少年サンデー』『FMレコパル』等雑誌編集部を経て『BE-PAL』創刊に携わり、編集長を経て、小学館情報誌編集局の執行役員を兼務しながら『サライ』『駱駝』などの編集長、編集部長を務めた。2013年7月から亀山市に在住。


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