応援している選手やチームの勝利はスポーツ観戦の楽しみの一つですが、日本代表の試合では日本中が沸き上がり、スポーツの持つパワーを感じさせてくれます。数多くの選手や監督に取材を続けてきた二宮清純氏(スポーツジャーナリスト)は、近年はスポーツによる地域振興についても考察や参画を重ねており、衰退する地方に元気をもたらすスポーツのあり方とは何かについてお話を伺いました。
今年日本で一番盛り上がったスポーツはWBC(ワールド・ベースボール・クラシック)ではないでしょうか。日本は3回目の優勝を果たしましたが、準決勝のメキシコ戦では苦戦し、1点を追う9回に村上宗隆選手のツーベースヒットで逆転サヨナラ勝ちしました。栗山英樹監督は、それまで不振だった村上に代打を送らず、しかもバントの指示も出しませんでした。この時栗山監督の頭に浮かんだのは「大局観」という言葉で、村上がここでヒットを打てば彼の将来にもつながるし、何よりもみんなが盛り上がり野球の面白さが多くの人に伝わると考えたそうです。大局観とは目先のことではなく次につなげるための判断です。この言葉はかつて、巨人、西鉄、大洋を優勝させた三原脩(みはら おさむ)監督のメモにあり、これを三原の娘婿で、西鉄、日本ハム、阪神で監督を務めた中西太(なかにし ふとし)監督がヤクルトのコーチ時代に選手だった栗山監督に伝えたとインタビュー時に聞いています。
栗山監督はまた、選手一人ひとりにメールではなく手紙を送っています。そこには「キミたちは代表(チーム)の一員ではない。キミたちが代表(チーム)だ!」と書いたそうです。自分の仕事だけやればいいと思うと無責任になる、自分が代表チームそのものだと意識させることで、選手たちの目の色が変わったそうです。あらゆる組織においてこの意識を持つことは、連携を強め、生産性を上げることにつながると思います。
三原脩、中西太、そして三原の教えを受けた仰木彬(おおぎ あきら)監督、栗山、このラインが日本の野球選手の国際化を作ったことは覚えておいてほしいものです。近鉄時代に仰木のもとで育った野茂英雄選手、吉井理人選手、オリックス時代のイチロー選手がメジャーリーグに挑戦し、栗山監督は日本ハム時代の大谷翔平選手を育てています。
またサッカー界では、これまで7大会連続で出場しているW杯ですが、昨年のカタール大会では、ドイツ、スペインというW杯優勝国に初めて勝つ偉業を達成しました。采配を振るったのが森保一(もりやす はじめ)監督。彼は高校時代に全国大会に出場しておらず、実業団からの勧誘もなかったので、広島のマツダに入ろうとします。その時、採用枠から外れたにもかかわらず「僕を採ってください」と訴え、それを耳にしたJリーグの元祖ゼネラルマネージャーと称される今西和男氏が先見の明でマツダの子会社に彼の採用を決めたそうです。森保選手がいなかったら、マツダがプロリーグになったサンフレッチェ広島の3回のリーグ優勝はなかったでしょう。
仕事ができて人柄もいいけれど目立たなかった森保監督は、サンフレッチェ時代にある人物と出会います。それが日本のサッカーを進歩させたオランダ人の日本代表監督ハンス・オフト。無名だった森保を日本代表に選んだ理由について尋ねると、彼にはEstimation(見積り) がある、つまり予測ができるというのです。中盤の底に陣取る彼は、試合の鍵を握る大事な場面でいつも重要な役目を果たしていました。「強い体力や精神力はもちろんのこと、これから先の日本が強くなるためには先を読む力が必要なんだ」とオフト監督は言っていましたが、この力が森保選手にはあったのです。そしてどれだけ先が読み通せるかは、何事においても大切だと思います。
現在、スポーツによる地域振興についても参画している私が、スポーツの大切さを教えていただいたのは、川淵三郎氏です。Jリーグの初代チェアマンであり、先日W杯で勝利し男子のパリ五輪出場が決定したバスケットの大改革をした人でもあります。川淵氏はJリーグチェアマン退任後、日本サッカー協会の会長に就任し、その愛称は荒波を乗り越える船の舵取り役という意味のキャプテンでした。
Jリーグ発足前の日本サッカーの動員は低迷しており、国立競技場の代表試合でさえ関係者に無料でチケットを配っていたくらいでした。1986年、バブル景気が起こり始めた年、W杯メキシコ大会アジア最終予選で初めて国立競技場が満席になりました。しかし試合は2-1で韓国に負けました。勝てなかった理由は、韓国がすでにプロ化していたからです。そこで日本サッカーのプロ化の機運が高まっていきます。しかし91年のバブル崩壊などにより、会議ではサッカーのプロ化に対する批判が出るようになる中、川淵氏は不可能に見えてもチャレンジして成し遂げようという意志がありました。リーダーに必要なのは、Passion 情熱、Mission 使命感、Action 行動力、そしてVision 構想力。これからもこの4つを持った人材を育てていかなければならないと思います。そして92年秋にJリーグカップ開催、93年春にリーグ戦の開幕を迎えました。もしサッカーがプロ化していなければ、日本代表がここまで強くなることはなく、一度もW杯に出場できず、サッカーブームも起こらなかったでしょう。
川淵氏は「Jリーグ100年構想」を作り、その標語は「スポーツで、もっと、幸せな国へ。」でした。スポーツが国を豊かにするというこの標語にショックを受けたことを今でも覚えています。確かに海外のスポーツチームを見れば、野球ならニューヨーク・ヤンキース、ボストン・レッドソックス、サッカーもマンチェスター・ユナイテッド、レアル・マドリッドというように地域名が付与されており、主役は地域や住民で、それを行政や企業がバックアップしています。一方日本では地域と密接な活性化をしてこなかったために、人、もの、お金が全て東京に集中していました。だからこそJリーグを作るにあたっては、地域を大事にし、地域密着のスポーツによって活性化させることが目標でした。
私が川淵氏に賛同した理由は、地方で生まれ育ったからです。私は八幡浜出身で子供の頃の人口は5万人前後だったのに今は3万人にまで減少しました。だから提唱する理念が身に染みてわかったのです。電気、ガス、水道のインフラはなくてはならないものですが、ソフト面のインフラ、例えば図書館、美術館、スポーツ施設なども生きるためには必要です。スポーツで地方が変わる、この町に生まれ育ってよかったと思えるために、みんなが応援できて心一つになるスポーツクラブを作ろう、それがJリーグ100年構想でした。
Jリーグではまた使用する言葉も従来とは違い、チームではなくクラブに名称を統一。クラブは解散しない家族のような共同体です。クラブは共有財産だから、フランチャイズではなくホームタウンに統一しました。また土のグランドではなく、けがの少ない天然芝のピッチを採用しました。そして新規に建設したスタジアムはスポーツ施設としてだけではなく、防災拠点になるようにし、実際、高床式でできた横浜の日産スタジアムは、2019年ラグビーW杯の際、周辺で洪水被害が起きても最小限にとどめることができました。
日本は世界で3番目の経済大国なのに、スポーツの市場規模は極めて小さい。2019年の世界の主要リーグの年間営業収入を比較したものが下のグラフですが、上からアメリカのナショナル・フットボール・リーグ、メジャーリーグベースボール、ナショナル・バスケットボール・アソシエーション、ナショナルホッケーリーグが並び、メジャーリーグサッカーは一番下の日本のJリーグより少ないものの、ヨーロッパのサッカープロリーグはイギリスのプレミアリーグを筆頭に、日本プロ野球よりも多い収益を上げています。
ところが下のグラフを見ればわかるように、今から約30年前の1990年代半ばには、日本とアメリカのプロ野球、日本とイギリスのサッカープロリーグの市場にはあまり差がありませんでした。さらにそれ以前には日本の市場規模の方が大きく、大リーグが獲得できなかったFA選手を日本のプロ野球チームが獲得したり、Jリーグ開幕当初は世界中から優れた選手が集まっていました。この話を今の学生たちにすると、驚きの声が上がります。そして先ほどの2019年の数値でもわかるように、今は格差がもっと広がっていると思います。
サッカーJリーグは当初の10クラブから、現在J1、J2、J3の計60クラブにまで増加し、サポーターの遠征もあって、観光業などによる地域の活性化にもなっています。地域に根付いたクラブの海外の一例として、ドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04には、日本から内田篤人選手が7シーズン活躍したことで知られていますが、もともと炭鉱の町だったため炭鉱労働者たちに愛されてきたので、内田も含め選手たちは、一度はヘルメット姿で炭鉱の中にある坑道に足を踏み入れ、鉱夫たちと食事を共にし、町やクラブの歴史に接しています。さらにシャルケの本拠地スタジアムの選手控室とピッチを結ぶトンネルを炭鉱の坑道へと模様替えし観光資源にもなっています。一方日本には文化と歴史が融合したスタジアムが非常に少ない。
プロ野球では、集客アップの一つのヒントとして広島のマツダスタジアムをあげたいと思います。広島東洋カープの本拠地ですが、カープはもともと地域に密着したチームでした。それが近年では「カープ女子」と呼ばれるファンが全国的に広がっています。新スタジアムでは女子トイレをドレッシングルームのように改修し、それが女性ファンを引きつけました。
経済、文化、スポーツなど東京に一極集中している現在の日本では、「失われた30年」で地方の人口減少は加速化し、経済の悪化、地方の疲弊などをもたらしています。だからこそスポーツをはじめとし日本各地に多様性を生かした社会を再生していく必要があります。同じように、エネルギーの選択も多様性を考慮して、ベストというよりはベターな選択をしていくべきではないかと思っています。
スポーツジャーナリスト
株式会社スポーツコミュニケーションズ代表取締役。
1960年、愛媛県生まれ。スポーツ紙や流通紙の記者を経てフリーのスポーツジャーナリストとして独立。オリンピック・パラリンピック、サッカーW杯、ラグビーW杯、メジャーリーグ、ボクシングなど国内外で幅広い取材活動を展開。明治大学大学院博士前期課程修了。広島大学特別招聘教授。大正大学地域構想研究所客員教授。経済産業省
「地域×スポーツクラブ産業研究会」委員。認定NPO 法人健康都市活動支援機構理事。
[HP] https://www.ninomiyasports.com
<主な著書>「スポーツ名勝負物語」(講談社現代新書)「最強のプロ野球論」(講談社現代新書)「勝者の思考法」(PHP新書)「村上宗隆 成長記 ~いかにして熊本は「村神様」を育てたか~」(廣済堂新書)最新刊「森保一の決める技法 サッカー日本代表監督の仕事論」(幻冬舎新書)